2019年05月15日の段 「死ぬほど可愛い」

たぶん10年以上前、名古屋に住んでいたころ
「死ぬほど可愛い」
と思った女性がいる。
以下、この人のことを「ご本人」と呼称する。
ご本人の名誉のために一応述べておくが、お付き合いをしてくださった期間は1秒たりともなく、ご本人は現在既婚である。

今でも視界に入ると、
「100%ただの良い友人」
という目では見るのは難しい。
それはもう相当の年月、ご本人に対しては激烈な敵対心をねつ造して暮らしてきた。
いっぽうで、長い年月のなか「心安らかに笑顔でいて欲しい」と願う感情も芽生えてきた。
少しずつ、それはもうほんの少しずつコミュニケーションを重ね、ついにはTwitterのメッセージ機能という微妙なものを用いて会話をするようになった。

そんな相反する感情うずまく微妙な相手と、2泊3日の空間に追いやられる。
例年長野の山奥で行っている、名古屋の男衆の寄り合いである。
ご本人は既婚者であるので、男だけの2泊3日に付き合うはずがない。
それはもう「会話のネタ」程度に誘ってみたら、いや誘うというより情報を横流ししておいたら、なぜか来ることになったという寸法である。

期間中は、ご本人を透過型オブジェクトか何かだと思ってやり過ごした。
ひと言ふた言ではあるが、 透過型オブジェクトと会話らしい会話をする機会があった。
そのなかで、ご本人の誕生日が近いことが話題になった。
最後に何か、お祝いをしたくなった。

2泊3日を何とか乗り切り帰宅し、さっそくお祝いの準備を始めた。
既婚者への捧げ物選びとしては、いささか非常識な時間と集中力をかけた。
選んだモノが、 既婚者への捧げ物として妥当なのかという疑問も残った。
それでも、本人の姿をあらん限りの想像力でイメージして(コストバランスも総合して)「これが最良」という根拠のない確信があった。

後日、根拠のない気合いを込めた捧げ物は、別の人の手で渡してもらうこととなった。
それでよかったと思う。
直接渡して、まかり間違って喜ぶ顔など見せられたら、臓器が破裂する恐れがある。
しかしまぁ、目に見えないところでご本人は意外にも喜んでくれたようだった。
喜んだフリとかではない、と信じたい。

片想いの相手であれ、今やよそ様のご内儀であれ、一度くらいは誕生日を祝いたいものである。
そのごく日常の事象を10年以上 (仮) ごしに消化し、憑き物が落ちたというか、ひと区切りついた気がした。

どうかこれからも、心安らかに、笑顔でいて欲しい。

2019年04月13日の段

便宜上、「隣の支社の副社長」と呼ぶ。

年相応に古めかしく生真面目な人で、自社ブログの更新や庭園の手入れなど真面目に行ってくれていた。
このたび定年を迎え退職された。

よくある話で、自宅はすぐ近くで今も歩いて会社にやってきては庭園の手入れだけはやってくれているらしい。
いっぽうで、当然社内のPCには触れなくなったことからブログの更新はすっかり止まってしまった。
どうも引き継いだ従業員もいないようである。
こういう状況になってみると、情報発信というのは意味を成しているのだと再確認させられる。

こちらの支社ブログはというと、継続はしているものの、どこか味気ない。
というか、写真がボケていて色合いもなんかおかしい。
ブログサイトがアップロード時にクォリティを下げているにしては度が過ぎている。
おそらく会社所有の古めかしいコンデジで撮影していて、おおかた設定をいじり倒してしまっているのであろう。

それでも、やってるだけマシなのかもしれない。

2019年03月28日の段

便宜上、「産業医の先生」と呼ぶ。

ちっちゃくて、時々どんくさくて、食べ物に妙な好き嫌いがある。
見ていて飽きることのない人だった。

その先生が異動してしまうという事実が今日の朝になって知らされ、
送別会が営まれ、
会の終了とともに即旅立たれてしまった。
なんだかワケが分からなかった。

立場上、職場全体の人事異動を聞かせてもらえることはない。
自ら望めば聞けないこともないのだが、このような形で突然お別れというのも、辛くなくていいのかもしれない。

どうせ来週は新しい人たちがやってきて慌ただしくなる。

2019年03月21日の段

今年度のどこかのタイミングで、どこの病院だったかも忘れたが、通路の壁に貼ってあるポスターで
「救急車をタクシー代わりにしないで」
的メッセージを目にしたと思う。
むろん、今となっては陳腐とも言われかねない使い古されたメッセージである。

しかし、この年始に母が入院した際にこのメッセージについていささか考えさせられてしまった。

救急車を呼びたいという気持ちと、このメッセージが胸につっかえてまごまごしている気持ち。
これらが拮抗する時間の積み重ねの末に家族を死なせたとなれば、こちらの頭がどうにかなってしまいそうである。

このメッセージを強く発信したいのであれば、逆に救急車を呼んでいいと言えるきわめて簡素な基準が必要なはずである。
それはまさに、素人がいくつものチェック項目に答えるようなものであってはならない。
そんなことをしている間に患者が死ぬかもしれないのである。
Q助という判断アプリがある。
アプリをちんたら触っている間に家族が死んでしまったとしたら、その光景がいかに滑稽であるかをアプリ開発者は想像したのだろうか。

「目の前で膝をついてロクに会話もできない」
判断基準など、この程度でいいのではないだろうか。

2019年03月10日の段

電撃大王を立ち読みする。
といっても「やがて君になる」にしか用がない。
7巻の発売告知が出ていたが、哀しいかな7巻ではさほどお話が動かないことがほぼ確定している。

一方、今月号ではお話が大きく動く直前まで進み、心がざわざわとさせられた。
アニメは少し不本意な終わり方をしたが、やはりこの作品が好きであることを再確認できた。
7巻も早々に予約してしまおう。

日ごろ貧しい貧しいと言っているたにぐちだが、好きなものには金をかけねばという部分はまだ残っている。
ここは変わってはいけないところなんだろう。

名前:たにさん or たにぐちさん
職業:むかし、元オタク
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